2024-vol-01-taitung-times
Taitung Times Vol.06.2023
産みの広野

本年度は、台東の地理をテーマに、読者の皆様に台東の魅力を深く伝えることを目的としています。台東特有の地形や気候、自然環境と、それらが育んだ多様な文化や経済、人々の暮らしを、多角的な視点から探求していきます。その中で、台東に対する理解と関心を深めていただければ幸いです。

文明のゆりかご

平野は、人類文明の礎と言えるでしょう。平野は農業生産に適した地形であり、初期文明の成長を促しました。今日でも、地球上で最大の人口密集地帯は、平野部に集中しています。

台東の広野

台東県は、雄大な山々や紺碧の海岸線が目を引きますが、実は平野が地元経済の基盤となっています。台東県の地形図を見ると、平野と言えるほどの面積は、池上南方の東部縦谷下部と知本、台東市北部の卑南川河口・初鹿を結ぶ三角形の約100平方キロメートルに限られています。海岸沿いの小さな耕地も見られ、特に南側の太麻里や北側の成功・長浜が目立ちます。

農業が主要産業である台東県にとって、平野の面積は限られているにもかかわらず、一次産業が優位であることは、台東の土壌が非常に肥沃であることを示しており、いくつかの要因によるものです。

台東県は、農業に適した地理的条件を備えています。中央山脈と海岸山脈に挟まれた東部縦谷は、標高約200メートルと高すぎず、温暖な気候と豊富な降水量、ミネラル豊富な火山灰土壌に恵まれています。これらの条件が合わさり、高品質な農産物が育ちます。

台東県を代表する農作物であるアテモヤは、バンレイシとチェリモヤの交配種です。約2,800ヘクタールの面積で栽培され、年間2万トン、約150億円の収益を上げています。アテモヤの栽培に適した条件は、東部縦谷の温暖な気候と黒潮暖流の影響による冬の乾燥です。

主食作物としては、米とアワが古くから栽培されています。約3,000年前の卑南遺跡からは、米やアワの痕跡が見つかり、台東で農業が行われてきた歴史が伺えます。  

人と土地の共存

台東県の豊かな農産物は、肥沃な土壌に加えて、先人の知恵と努力によってもたらされています。限られた耕地で、世代にわたる農家は自然の循環を観察し、持続可能な栽培方法を編み出してきました。

輪作やカバークロップなどの技術は、土壌の栄養を保ち、雑草や害虫を抑制します。また、菜種植え付けは、土壌の保水性や保肥性を高める効果があります。これらの技術は、単に収穫量を増やすだけでなく、環境への負荷を減らすことにつながります。また、混植や化学物質の使用制限などの「やさしい農業」は、生態系の保全にも貢献しています。

こうした先人の知恵は、現代の台東農家に受け継がれ、持続可能な農業の礎となっています。  

原住民の平原暮らし

台東には7つの原住民グループがあり、その中でもさらに多くの部落に分かれています。台東周辺の三角形の平野には主にプユマ族が住み、周辺の丘陵地帯にはルカイ族が住んでいます。東部縦谷はブヌン族とアミ族が共有しており、パイワン族は南横沿いに散在し、台東市北部の海岸線は主にアミ族とカバラン族が居住しています。

肥沃な台東平野に暮らす原住民コミュニティは、豊かな農業生活と伝統的な祭儀を育みました。プユマ族は、アワ、麻、大豆、小麦などの栽培に加えて、後に水田稲作を取り入れ、経済的に繁栄しました。女性の稲刈りの終わりを祝う「除草完工の儀」も行いました。カバラン族は、サツマイモ、タロイモ、米、陸稲などを栽培しました。ルカイ族とブヌン族にとって、アワは重要な作物であり、収穫祭の中心となっていました。ルカイ族は、アワを分かち合いと祝福の象徴と考えていました。清朝と日本統治時代には、アミ族は広範囲に水田稲作に移行しました。それに伴い、豊年祭の日付も変更されました。ブヌン族は、日本統治以前からアワを栽培しており、今でもアワの儀式を続けています。

平野全体では、アワや米などの主食の播種と収穫が暮らしのリズムを刻んでいました。ブヌン族のアワ豊作祈願やプユマ族の除草完工の儀など、収穫の儀式は自然の恵みへの感謝の表れでした。現代の資本主義社会と同様に、古くから伝わる農耕社会も、文字通りの「生産崇拝」に没頭していました。しかし、その崇拝は自然と対立するものではなく、自然と共存するものでした。つまり、持続可能な生産モデルであり、それが今日まで受け継がれてきたのです。

 

新参者

清朝、日本、中国の植民地化の波は、過去数世紀にわたって台湾に多くの新しい住民をもたらしました。その中でも、日本人は、肥沃な台東平原が米作りに適していることをすぐに見抜き、数千人の漢族と客家農民を台東平原に移住させました。

漢族と客家は、狩猟や漁業も行うハイブリッドな原住民社会とは異なり、専ら農耕に従事し、山や海を敬遠する傾向がありました。そのため、当時の日本政府は、これらの農民を使って耕地を拡大し、近代的で集約的な大規模農業を導入しました。

実際、台東平原の用水路網は、日本の植民地時代に整備されたものです。水路、堤防、水門など、これらの用水路網は、広大な平野に水を行き渡らせ、米や他の農作物の生産を支えました。また、台東の貴重な産物を西と北の大都市に輸出するための鉄道も建設され、これらの大規模な土木工事の痕跡は、現在も台東県内に残っています。

日本統治時代は、台東の現在の発展と農業面での基礎を築いた功績が認められる一方で、伝統的な生産方法を置き換えた近代的な工業生産方式により、いくつかの副作用も引き起こしました。前世紀の収量と製品の外観の向上の追求は、農薬と化学肥料の過剰な使用を促進しました。農家は収穫を急いだため、表土の栄養素が枯渇し、農産物の品質が低下し、生態系が損傷しました。

原住民コミュニティを周縁化する政策、例えば先祖代々の土地を奪ったり、伝統文化や祭儀を禁止したりすることによって、格差が拡大し、地域の文化的布地が薄くなりました。住民たちは、幼い頃の記憶にあった鳥や虫が、目にするのが難しくなっていることに気づき始め、原住民コミュニティは先祖の伝統を忘れかけていました。

農家と政策立案者が、台東平原は相対的に希少であるため、総生産量で台湾西部と競争することはできないということに気付くのに数十年の歳月を要しました。ようやく、台東の競争優位は量ではなく質にあること、そして台東を台湾でユニークなものにしているのは、手付かずの環境、豊かな生態系、貴重な文化遺産であることが人々に理解されはじめました。

希望の光

このようなユニークな歴史的背景と課題を踏まえ、台東県の饒慶鈴県長は「スローエコノミー」という構想を打ち出しました。スローエコノミーとは、生活の質の向上、環境に配慮したビジネスの推進、意味のある観光体験の創出を重視する経済モデルです。台東は、このスローエコノミーを推進することで、自然資産を活用した持続可能な開発を実現しようとしています。

第一に、環境に優しく有機的な農業を奨励し、その後、地元産・旬を食べる「おいしい」「きれい」「ただしい」という理念を掲げたスローフード運動と哲学を推進することによって農家を支援しています。政府は安定した農産物市場を確保し、生産者と国内外の買い手をつなげています。また、オーストロネシア文化幕開けの拠点として台東を確立するためのパートナーシップも結んでいます。

これらの取り組みにより、台東は伝統と現代性を融合し、豊かな文化的ルーツと自然遺産を活用した、持続可能なコミュニティと環境づくりを目指しています。スローエコノミーの実現によって、台東の肥沃な平野とその住民は、繁栄と調和の未来を享受することができるでしょう。

台東平野を取り囲む無数の峰々は鬱蒼とした森林に覆われており、まるで巨大な苔の絨毯のように雄大で神秘的です。この森林は、台東平野の持続可能な発展に欠かせない存在です。森林は、水源の涵養、土壌の保全、生物多様性の保全など、さまざまな役割を果たしています。台東平野は台東住民にとって宝庫であり、森には食料や薬草、そして生活に必要なさまざまな資源が豊富にあります。また、森は台東住民の心の拠り所でもありました。次回のテーマでは、この森林が台東住民にとってどのような役割を果たしてきたのか、詳しくご紹介します。

 
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